こんにちは。T.Sです。
コロナウイルスの感染者がやばいですね。私の身内にも感染した人がいます。
罹らないようしっかり対策を…もう皆さん充分にしていますよね。
弊社でも換気や消毒用アルコールの設置をして対策を行っています。
幸い弊社内では感染者がでていません。
「やばい」という言葉が嫌いな人
以前働いていた職場の上司に
「『やばい』という言葉の意味が分からないから嫌い。」と言う人がいました。

その人は、私が「やばい」という言葉を使う度に
「やばいってどういう意味?」と聞き返してきていました。
蒟蒻問答
最近、「蒟蒻問答」という落語を聞いて、ふと上述の上司とのやり取りを思い出しました。
そもそも蒟蒻問答とは…
上州安中に六兵衛という蒟蒻屋がいた。かつては江戸のやくざ者であったが、
面倒見の良い親分肌で、江戸から逃げてきた銭の無い若い衆が、
六兵衛を頼って訪ねてくるとしばらく世話をしてやり
いくばくかの銭を渡して江戸に帰らせてやっていた。
八公もその一人だが、いつまで経っても江戸に帰りたがらず、仕事もしたがらない。
困った六兵衛は近所の禅寺がしばらく無住だったことを思い出し、
八公にそこの坊主になることを勧める。
渋々その寺の坊主になった八公であったが、田舎寺のためそうそう弔いなどもなく、
怪しいお経を読み、寺男を相手に酒を呑んではだらだらと過ごしていた。ある日、越前永平寺の沙弥托善と名乗る旅僧が訪ねてきて、
この寺の大和尚と問答をしたいと願い出る。
禅問答などしたこともない八公は、「和尚は今出掛けているから」
と嘘をついて旅僧を追い返そうとするが、旅僧のほうは和尚の帰りをいつまでも待つ、
と一歩も引かない。どこかへ逃げようかと考えた八公だったが、
そこに現れた六兵衛が話を聞き「俺が和尚のふりをして何とか追い返してやる」と申し出る。旅僧が本堂に踏み入れると袈裟を着て和尚になりすました六兵衛が待ち構えている。
しかし、当然ながら六兵衛に禅問答の知識などないため、
旅僧から何を問われても無視してしびれを切らせようという作戦に出る。
話かけても何も答えない相手を見て旅僧はこれは禅家荒行の無言の行であると勝手に勘違いし、
ならばと身振り手振りで問いかける。
旅僧が両手の指を付けて小さな輪を作ると、六兵衛は腕も使って大きな輪を作り、
それを見た旅僧は平伏する。
しからばと僧侶が10本の指を示すと、六兵衛は片手を突き出して5本の指を示し、
再び僧侶は平伏する。
最後に僧侶が指を3本立てる様子を見せると、六兵衛は片目の下に指を置いた。
そこで僧侶は恐れ入ったと逃げ出すように本堂を出る。陰から様子を見ていて驚いた八公は僧侶に負けた理由を訪ねた。
旅僧曰く「途中から無言の行と気付き、こちらも無言でおたずねした。
『和尚の胸中は』と問えば『大海のごとし』。では、『十方世界は』と問えば『五戒で保つ』と。
最後に『三尊の弥陀は』と問うたところ、『眼の下にあり』とのお答えでありました。
とても拙僧がおよぶ相手ではなかった」と語り、悄然と寺を立ち去った。よくわからずも、とにかく六兵衛が禅問答に勝ったことに関心した八公が
(Wikipediaより)
本堂に行くと六兵衛が激怒している。
聞けば「あの坊主はふざけた奴だ、途中で俺が偽者でただの蒟蒻屋だと気付きやがった。
『お前ん所の蒟蒻は小さいだろう』とバカにしやがるんで、
『こんなに大きいぞ』と返してやった。
野郎、『十丁でいくらだ』と聞くから『五百文』と答えたら、
『三百文にまけろ』とぬかしやがったんで『あかんべぇ』をしてやった」
というあらすじです。
蒟蒻問答とやばい

蒟蒻問答で面白いのは、お互いが互いの身振り手振りを誤解し
そのまま問答が完結するところかと思います。
これは、違いはあれど日常生活や社会生活でも頻繁に起こる問題です。
「あれ」「これ」「それ」などの指示代名詞、共通認識が取れていない会話など、、
「やばい」という単語も現代では様々な場面で使用され、
意味を特定することが難しい単語の一つです。
そういった単語は誤解を生んだり、間違った理解のまま話が進んだりすることがあるので、
何かを伝えたりする場面では避けたいですね。やばいことになってしまうので。